情熱大陸x秋元康

「ここ20年ほど、秋元康に踊らされてないか?」「AKBからイ・ビョンホンまで秋元康ヒットメーク術」
作詞家、作家、構成作家からアイドルメーカー等等。あらゆる雑誌、イベントプロジェクトの仕掛け人なんだ。NHKのゆるゆるな骨骨体操につられてたら、作詞がこの人でびびった。
共通点は「伝えるということの本質を考える。」「みんなが面白いと思うもの」=ストーリー演出?
企画書作って持ち込んだ秋元に対し、スタッフの演出家が構成対決していて笑えた。

80年代以来、数多くの斬新な「手の内」を編み出すことで時代を動かしてきたひとである。当然、テレビ番組のつくり方は知り尽くしている。そんなひとを描くというのは、いわば秋元さん自身の「俺ならこうするけど」「俺ならこんなふうにはしないけど」と真っ向から勝負することでもある。

 そんな秋元さんを満を持して描くには、おそらく二つの方法論があるだろう。一つは秋元さんの「手の内」にすっぽりと載せられて、「秋元康による秋元康」を見せる方法。そしてもう一つは、あえて秋元さんの「手の内」を封印して、あくまでも被写体として描き出す、というもの。どちらも面白そうだが、それぞれにデメリットもある。前者だと第三の目で見る批評性が失われてしまうし、後者だとせっかくの秋元康らしさを最初から放棄した格好になりかねない。

 さて、『情熱大陸』はどう描くだろう……と楽しみにしてオンエアを観た。

 まいった。スタッフは僕の浅薄な予想をみごとにくつがえしてくれた。番組の中盤、秋元さんの「俺ならこうするけど」をはっきりと僕たちに示しながら、しかし、そうではない構成で番組をつくりあげた。つまり、幻の「秋元プラン」と実際の番組とを、僕たち視聴者にプレゼンしたわけだ。

 もちろん、秋元さんも自分のプランを押しつけたりはしない。むしろ「お手並み拝見」という形で、自分のプランが崩されるのを楽しみにしていたはずだ。

 そして、そのプロ意識に応えるかのように、番組は最後に「自分の出ている『情熱大陸』を観る秋元康」を映し出した。編集中のテープを秋元さんに見せて、感想を訊いた。ドキュメンタリーをつくるというドキュメンタリー、メタレベルでの構成にして、二重三重に秋元さんの凄みを伝え、なおかつ秋元プランに乗らなかった番組のオリジナリティを強烈にアピールしたのだ。

 意地――という言葉は、しばしばひねくれた感情と同義になってしまうものだが、ここにあるのは、どこまでもまっすぐで気持ちいいドキュメンタリーのプロの意地だった。

 幻の「秋元プラン」と実際の番組の、どちらがほんとうは面白かったのか。その答えは永遠に出ないだろう。正解などないのが、ものをつくるということなのだから。

 編集されたテープを観た秋元さんは「自分のプランよりこっちのほうが面白かった」とは言わなかった。しかし、「俺ならこんなふうにはしないけど」とも言わなかった。互いに認め合ったプロ同士の緊張感と敬意が交錯する、名場面だった。