〆切24日 日本語特論  

 1/4・・・24↓出来そう??みのもんたの朝ズバッ!・タイムテーブル

レポート課題③
スタイルシフトが実際に起こっている場面を5つほど,実際の会話場面(ドラマ,対談,トーク番組,シナリオなどでも可)から抜き出し,その効果について分析しなさい。

現実の場面と小説・アニメ・漫画・日本語訳の場面での男女差
>映画の吹き替え(字幕でも可)を見て,女性と男性の言葉を調査しなさい。 原語がわかる人は原語も比較してみてください。(100文程度)
※文字化した資料を,資料としてレポートに添付すること。

、「です・ます」(フォーマル)、「だ・である」(パーソナル、タメ口)を一つの会話の中に混ぜる表現
上から下への場合はうまく機能するが、逆は成り立たないという

いつ降るのか
明日,降るんだ。
うん,いいんだ!  
「の」のやわらかさ=「だ」の省略によるもの

鈴木睦(1997)「女性語の本質―丁寧さ,発話行為の視点から」『女性語の世界』明治書院
女性が使えない形式
1. 動詞・補助動詞の命令形,禁止の「な」
   早く来いよ。 落ち込むなよ。
2. 文末の疑問を表す助詞「か」「かい」「だい」
   ミスはないか。元気かい。いつ行くんだい。
3. 話し手の意志を表す助動詞「う・よう」「まい」
   明日はやめておこう。失敗したことはもう言うまい。
4. 話し手の推量を表す助動詞「だろう」「まい」
   そんなことはないだろう。あいつはもう帰ってくるまい。
5. 断定の助動詞「だ」
   明日は試験だ。

1調査課題・目的
2調査方法
3分析(表やグラフなどにまとめることが大事ですが,文章でも必ず説明すること)
4結論
(ある場合は 参考文献)
評価点・・自分でやった調査の合理性 結論の導き方

コードスイッチ(言語の切り替え)*「カナダ日系二世のcode-switchingについて」 漢語で書かれた聖書 健聴者と聴覚障害者の手話   
スタイルシフト>ラジオ的みのもんたの話法「〜っす」コード選択の放棄流行するスタイルシフト話法が壊す対等性「関係の空気」「場の空気」

みのもんた氏の人気の秘密は「コードスイッチ」にある。
「え〜次は演歌の星、○○さんです。 ○○さんの歌はいいねえ。 ほっとするねえ。 おっと、その前に点数を見てみましょう。 あれれ、白組はだいぶ負けてるゾ。 オイ、お前ら何やってんだ。 大変ですね。 ○○さんは責任重大だ。 がんばってくださいネ。 それではお届けしましょう」と言った語りが彼の真骨項であろう。 こうした「コードスイッチ」話法は、みのもんた氏の経歴に秘密がある。 それは彼の原点が、70年代のラジオの深夜放送にあるからだ。 当時のラジオの深夜放送は「孤独な若者」に、パーソナリテイと呼ばれていたDJが「個人的に語りかける」というスタイルが人気を博していた。

 みのもんた氏の成功は、この「私的な言語空間」をより公共的な場にTVやバラエテイショーに応用して行った点にある。 だがTVの場では、コードスイッチの様な「私的話法」はそのまま「空気」をその場に行き渡らせて、権力化してしまう。 
その権力化も計算に入れて、権力に見合うだけの押しの強さと、ある種の人情的な話術を取り混ぜて、今の地位を確立したと言ってよい。 遂にはNHKの紅白歌合戦という、娯楽番組としては最も公的な場を乗っ取って締まったのである。

 では、どうしてそんな話法が受けるのだろう。 まず、こうした「私的」話法というのは、それだけで説得力があるという事がある。 ニュアンスに富み、聞いていて面白い。 「何ともぞんざいで、態度が大きいなあ」という違和感を持ちながらも、慣れてくるとそれも気にならなくなる。 それだけではない。 こうした「私的な話法」に慣れてくると、段々に「〜です、ます」調の丁寧な話法が、格好をつけていて冷たい」話し方に聞こえてきてしまうのだ。 その一方で、コードスイッチを混ぜた「タメクチ」的な話し方の方が「ストレートで、ホンネが入っていて、正直なので」共感できるという様に思い込まれていく。 小泉首相の「自分の言葉」というのも同じである。

 こうしした話法が歓迎されるのは、自分の身の回りでの「関係の空気Lに豊かなものが欠けているからではないだろうか。 やや短絡的かもしれないが、現代の日本人は家庭や職場で「関係の空気」に守られた幸福な日本語を経験できずにいて、その分TVのバラエティ番組や小泉劇場で見られる様な饒舌な空間に吸い寄せられていっているのではないか。

 そこで疑似的な私的経撃していると思いながら、実は巨大な「空気という権力」に吸い込まれているのではないか。 見方を変えると、地域共同体や家族、学校と言った中間的な共同体が崩壊する中で、むき出しの個人が、政治や会社組織という大きな共同体に帰属させられてい分、そんな現象が起きているのだろう。

 中聞的な共同体を支える「関係の空気」が希薄となり、その代わりに「場の空気」がどんどん濃厚になっている。 考えてみれば、みのもんた氏が深夜のラジオ放送で.疑似的なプライベートト空問を演出していた1970年代前半も、不安な時代であった。 価値観が流動化する中、ニクソンショックオイルショックベトナム戦争など社会に不安が満ちていた時代でもあった。 だが、現在の状況は1970年代よりも危機が深いと言えるだろう。 そしてその危機を深めている要素として日本語の問題は避けて通れない。