パワーポイント・ハイヒールってどうやって出来た?

15分>一人2分!!8人・・・世界トイレ事情〜 ヒール@wiki
ヨーロッパのトイレ暗黒時代

 紀元前400年代、アテネで、背を高く見せるハイヒールが遊女間に流行した。これは男性も履いていた。
 1570年ごろ、ベネチアで、チョピンというイスラム風ハイヒールが高級娼婦の人気を得る。
 1600年代、フランスで、町に溢れる汚物を踏む面積の少ない靴、ハイヒールが発明される。
 男女問わず履かれていたが、ナポレオン戦争が始まると男はより機能的な靴を選び、 結果ハイヒールは女の履物となった。

 ルイ14世は背を高く見せようとはいていた。

 5世紀ごろに西ローマ帝国が滅ぶと、古代ローマのトイレ文化も失われた。トイレのレベルは古代文明を通り越してほぼ先史時代の水準にまで衰退した。

 当時フランスのパリには公衆トイレはなく、また家庭で出た汚物は窓から道に捨てていた。下を歩いているひとは油断ができない。いつ上から糞尿を落ちてくるか分からないからだ。
 女性をエスコートするときは、一般的に男性が車道側を歩き、女性が建物側を歩く。かつてのパリの街では逆であった。糞尿を被る恐れのある建物側は男性が歩く。それでも女性のドレスの裾は、歩道に散らばった糞尿でクソだらけになる。これを防ぐために考案されたのがハイヒールだという。フランスの香水も、体臭を消すために開発されたものである。

日傘もシルクハットも・・・・1832年からのコレラの流行!!
朝になると、「ガーディ・ロー!」(水に注意!)という掛け声とともに、窓の外に撒いていたそうです。この言葉を聞いた通行人は「ウハド・ヤ・ハン!」(ちょっと待ってくれ!)と呼び返した。
 そのおかげで道路は悪臭が漂い、黒く変色した汚物でいっぱいだったそうです。そのため、町の人は、汚物が付いても目だたない黒色の服を着ていました。明るい服を着ている人は、歩く必要が無い金持ちの人が来ていただけです。
 それで、ちょっと前まで欧州では黒い普段着は、ビンボくさい服と認識されていました。

19世紀頃までは、屎尿は夜のうちに道路上に投げ捨てられる物で、翌朝道路掃除人夫が道路の真ん中にある側溝に屎尿を集めました。土曜、日曜は道路掃除人夫も安息日で働きませんでした。夏のシャンゼリゼ通りなど石畳の上にまかれた屎尿は、二日間ほおっておかれるので、月曜日の朝は?想像してみてください。
 皆さんが観光で訪れるシャンゼリゼ通りも、「不潔通り、尻下通り、かわや通り」と呼ばれていました。
 道路の真ん中にある屎尿のあふれた側溝を横断するには、道路の端から端に渡された板を渡るしかなかったようです。 おめかしした上流階級の女性が通りを横断しようとするときは、通りの向かいまで女性を背負っていく商売の「渡し屋」にお願いするか、ハイヒールを履いて通りを渡るかのどちらかです。
 当時考えだされたハイヒールは、「必要から生まれた物」で、かかとだけではなくつま先までも高く、中には全体が60cmの高さの物もありました。
14世紀まで?・・・汚物を処理するために、中世ヨーロッパの都市では豚や羊が飼われた。特に豚は人糞や生ゴミを「処理」するものとして重宝がられたという。もっとも、当時の豚は「豚」というよりは、剛毛や牙の生えた「イノシシ」に近いものであったらしい。市民の中には、彼らに追突されたり、牙で引っ掛けられたりして大怪我する者が少なくなかったという。


 14世紀にロンドンで発生したペストによって、1日に7000人以上が死んだという記録が残っている。1625年にも4万人、1665年の大流行では10万人以上が死んでいる。コレラも19世紀の中ごろに流行をみせ、ロンドン市だけで数万人の死者を出している。・・・産業革命を迎えても、汚物にまみれた町並みはしばらく続いた。


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古代の靴・チョピンヒールの歴史