「青年」レポ漁り・・・

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  • とりあえずこの本は、童貞論について語っているのかもしれない。そういう意味で、坂井夫人の顔がお雪になったりする妄想の夢のシーンがとてもよかった。中学校の夏休みの感想文で、こんな感想書いたら親呼ばれそうだね。
  • 『青年』は淡泊な小説である。大石狷太郎の小説は批評家から、アウグスティヌスやルソーの

「告白」に準えられているらしい。
主人公小泉純一は、大石に弟子入り志願の為上京するが、
手応えを得られず、その代わりにあれやこれやの体験をする。

その体験が若者の特権として
告白されているのだが、詩とエロスの両方が全く存在しない、と云って好いかと思う。射精欲と
でも呼ばれるべき対象を欠く理不尽な発情があるでもなく、詩の言葉で埋め尽くさなくてはなら
ない心の深い穴が見えるでもない。例えば「小泉純一は何故小説を書こうとするのか」が、解ら
ないと云えば解らないのである。

「厭味だと云はれるのが氣になると見えて、自分で厭味だと書いて、その書いたのを厭味だと
云はれてゐるなんぞは、随分みじめだね」 

これはまるで太宰治自身によって太宰治について語られているようではあるが、『青年』の中
で鴎村なる作家に関して語られた部分である。小泉純一はこれに対して、

自分の世間から受けた評に就いて彼此云へば、馬鹿にせられるか、厭味と思はれるかに極
まつている。そんな事を敢えてする人はおめでたいかも知れない。厭味なのかも知れない。そ
れとも實際無頓着に自己を客觀してゐるのかも知れない。それを心理的に判斷することは、性格を知らないでは出来ない筈だと思った。

恐らく鴎外は、無頓着に自己を客觀しているつもりなのだろう。それは作者自身の投影と思しき登場人物がしばしば作品中に顔を出すことでも明らかであるし、ナレーターが主人公の行動の理由を予め用意しているようにも見えないからである。だから「何故小泉純一は小説を書こうとするのだろう」という問いには明確な答えはない。
ただ形而上学を越えた何物かに触れよう
としていることだけを感じられるのみである。

鴎外
の大抵の小説には「鴎外の自己投影」としか見えない人物が出て来ることになっているのである。それは何故か。鴎外と話者が、或いは鴎外と主人公が、しばしば同じ認識論を有している
からである。


 或いは鴎外は典型を避け、登場人物に小説の中でさまざまな役柄をリアルに演じさせているのだが、
そのリアルさの捉え方が飽くまで鴎外流なので、
ついつい出ずっぱりのキャラクターは鴎外の認識論に沿う形で世界に対峙してしまうのである。(Byノーツ

鴎外は人生そのものがすごいと思う。いいなぁ……

文章は…俺の修行が足りないかな、どこが良いのかよく解らない。

この逆が、漱石かな


222 :鴎外の最高傑作 ・・・『日本兵食論大意』


332 :1.漢文の素養

   2.西洋の古典(特にギリシャ)への含蓄

   3.三面記事的なゴシップを適度に好む俗っぽさ

   4.小説作法における既成概念への憎悪

   (あくまでも「自然主義」を勘違いしている国内文壇に対しての反動意識)


こういったものがミックスされている文学。

要するに当時の、どーだ俺って凄いだろう?的な小説にすぎません。