押井かんとくの「すべての映画はアニメになる」6月24日

乙女座グラビティさんより。

製作の中の独裁・共犯…

(押井監督の映画作りのシステム=オープンシステムについて)映画作りの現場において、独裁主義も民主主義も有効ではない。
 伝統的に映画作りは独裁的であった(民主主義が上手くいかない事は自明)。だが独裁主義が失敗するのは幾つもの歴史が証言している。(判り易い比較として例を挙げると)宮崎駿のシステムとは正に独裁主義であり、それは宮崎=独裁者が直接的な力を振るうだけでなく、共同体の中に生贄を作りだし共犯関係を結ぶ事によって結束を図ろうとしている。
これは特別な事ではなく、共産党など集団を操るためには常套的に行われてきた事だ。
だが作っている作品のテーマとその製作現場に齟齬があり、「言ってる事とやってる事が違う」。人材の新陳代謝も起こらずに創作活動をするはずの人間達も萎縮してしまうだけだ。

 

(押井監督が描く主人公が警察や軍隊であることについて)そもそも日本アニメというものは制服を着たキャラクターを描く事で成り立ってきた。それは生産上の合理性(誰が描いてもそれらしく見える)という理由もあるし、それよりも作り手が自ら望んでいた。
 警察や軍隊が主役となる事の意義は、「加害者」としての立場を引き受ける事が必要だからである。とりわけ日本人の意識は、「加害者になるくらいなら被害者でいたい」という、「被害者」の立場に立てば正義を獲得できるかのような錯覚を持っている。
ここで一旦虚構を通して、葛藤や決断を必要とする「加害者」の意識をその自らに取り込むべきである。それはこの現代においては虚構の中でしか経験し得ない。それは戦争について考えることに負荷がかけられているからだ。